諦める力を読んだ

情報が氾濫していて、いろんな言語、いろんな技術が颯爽と登場していく現在、我々に必要なのはこの『諦める力』ではないだろうか?と思い、手に取りました。

著者は世界陸上のハードルでおなじみだった為末さんです。
ツイッターとかでも割と炎上していたりもするけれど、言ってることは筋が通っていて参考になるので、こういうまとまった形で読めるというのはいいことだと思います。

副題に「勝てないのは努力が足りないからじゃない」とあります。
大枠の内容をざっというと、大成した選手たちは、諦めなかったからうまくいったと全員言うのだが、その裏では諦めなかったがゆえに体を壊したり、ずっと結果が出ないまま30代半ばまでいってしまい、いざ辞めたらなにをしたらいいのかわからない、他の仕事になかなか就けないようになってしまったなど、そういう人のほうが大勢いるというのが現実である、という話でした。

諦める・辞めるというのは、ネガティブなイメージを与える言葉で、あんまりよくないです。為末さん自身は、18歳のときに100m走を諦めて、そこから400mハードルに転向したのですが、そのときも「自分は逃げたんじゃないか」という感情と向き合うのに苦労したようです。実際は100mのトレーニングの影響で、肉離れがよく起きていたことや、肉体の成長(身長とか)が止まったのでどんどんライバルに詰められていたことなど、いろんな要因があったのですが、当時は「諦めなければ夢は叶う」と思っていたので苦渋の選択だったようです。

その感情と付き合っている間に、本心を言語化することができたといいます。

「勝つ事を諦めたくない」

AをするためにBを諦めるという選択。Bという手段を諦めた。目的さえ諦めなければ手段は変えてもいいのではないか?というところが為末さんの一番言いたいところだと感じました。
一般的なビジネスの世界では、勝ちやすいところ(ブルーオーシャン)を探してそこに切り込むことはいいことだとされるのだけれど、スポーツの世界では、とくに日本では、勝ちやすいところを選んだというと「動機が不純である。それは単なる逃げだ」というふうに捉えられてしまいがちです。また、周囲の期待や、今までずっとやってきたというサンクコスト、もっと努力すれば…という願望などが、諦めるタイミングを誤らせてしまうとあります。

特に日本は『諦めることは恥』という刷り込みが強くあり、やめることに強い抵抗があること、努力すれば夢は叶う、叶わないのは本人の努力不足である、と感じてしまうということについてかなり書かれています。為末さん的には、そういう重圧で諦める機会を逸してしまう人たちに、諦めてもいいということを本当に伝えたかったのでしょう。

世の中は平等ではなく、生まれや才能の違いは努力ではどうにもならないところがあることにも触れています。才能の格差は必ず存在し、何もしてなくても速く走ることができたり、努力していなくても頭のいい人がいる。その事実は否定できないでしょう。そして、ある人にとっては苦痛なことでも、他の人にとってはそれは娯楽である。娯楽であるからいくらでも努力できる。そういう人に勝負を挑んでも到底勝つ事はできない、とも。

1つに賭けるのではなくいろんな可能性を探った方が、それによって才能が開花することもありますし、もっとやりたいことが出てくる事もあります。

また、とあるAとBの関連性は全くないということにも触れています。

「Aがダメだったお前が、Bをやってもうまくいくわけがないだろう」

というやつです。この前、上司「転職してもお前なんか通用する訳ない」←これ嘘だからというのを読んだのですが、本当にその通りなんですが、当事者は気を病むわけです。俺みたいなやつが転職して本当に通用するんだろうか?と。飽きたからやめた、でもいいじゃないかと言っているのは痛快です。

諦める技術というよりは、選択する技術、またその物差しについて書かれているなと思いました。あまり周りの目を気にしすぎず、自分本位で選択していってもいいんだよというメッセージだと感じました。自分で選択するのが苦手という人は手に取ってみるといいかと思います。


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